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Channel: 小ヨシュアの家・聖書研究会
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【さばくことは恐ろしい。】

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 みなさんこんにちは。今日は大晦日、土曜日に書けなかったのが少し延びてしまいました。

ここ数日、そうとは気付かず『裁いて』しまい、神からの懲らしめに遭う・・・実体験も通してその

意味を噛みしめています。

 聖書は、ローマ人への手紙14章1~13節です。ちょっと長いのですが人生の中で噛みしめ

なくてはならない聖句だと思いました。

「信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。

ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。

食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。

神は彼を受けいれて下さったのであるから。

他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人に

よるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。

また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考え

る。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して

食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。

すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のた

めに死ぬ者はない。

わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにし

ても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたし

たちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。

すなわち、/「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ

、/すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」/と書いてある。

だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。

それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げ

となる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。」

 この聖句は『さばき』誤ったあり方への警告ともなっています。

「それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げ

となる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。」

 私はよくよく記憶しているのですが、他者への正義感からくるある種恨みもこもった『さばき』

をしようとした結果、自分の身の回りで自分自身への『さばき』かと思われる事態が頻発し、

自分の正義感で結果として相手を『裁い』てしまう恐ろしさを実感した経験があります。

知人で間違った行いをしている人をその関係者にそれとなく訴えようとし、結果として自分の

失敗が次々起き自分自身が評価を下げて危機に陥ってしまった・・・そんな苦い体験です。

 ずっとそう思っていなかったのですが、天の神様は恐ろしいほど公平で例えば自分が失敗

を人からカバーしてもらった・・・そんな暖かい経験をしていたのをついつい忘れ、他人をさば

いたりすると見事におかしなことが身の回りで頻発するのです。どこまでいっても人生はハッ

と気付くなら恐ろしいほど公平な裁きが行われている・・・信仰の目を開かれるならそれに気

付けるのです。

「信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。

ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。

食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。

神は彼を受けいれて下さったのであるから。 」

 ここで書かれていることは世の中で・・・ほら目を開くなら結構やってしまっているのです。

『意見を批評するためであってはならない。』・・・知らず知らず、意見の違う人を否定して自

分のやり方を強制する・・・最近は、先に自分の意見で人を評価してしまい後になってその

人の意見が分かり修復が困難になるほどの揉め事になってしまい、御言葉への不従順の

かりとりを『自分への裁き』としてこうむってしまう・・・痛い経験をしました。まさしく

まずは、『食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいて

はならない。』・・・厳粛にそのことは痛い神からの懲らしめの形でじつは万人が刈りとること

になるのです。さらには、『教会の行事の持ち方』であったり、『クリスマス』など日の守り方

であったり、意見の違いには必要以上にこだわってはいけないようです。・・・必要以上に

ですけどね。よく、クリスマスは元々異教の祭りだから・・・と祝っている教会を非難する・・・

そんな行動もアウトなのです。以前の私はそこに気付かず平気でブログ等でコメントしたり

していました。しかし、

『また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考

える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して

食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。 』

・・・とあるように神が判断される領域に人間が勝手に入り込んで人にああだのこうだのと

講釈をたれて裁いてはいけないのです。なぜなら、

『日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して

食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。

すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のた

めに死ぬ者はない。

わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにし

ても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。 』

・・・とあるからなのでしょう。意見や判断に気を取られ自分たちはイエス・キリストすなわち

主のものであることを忘れるならまさしく本末転倒となってしまうからです。

 そうか・・・ポイントは『主に対して』どうか・・・ただそれだけなのです。

 最後は今日の聖句の重要な箇所を味わって今日のメッセージを閉じたいと思います。

それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたし

たちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。

すなわち、/「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ

、/すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」/と書いてある。

だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。

それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げ

となる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。」

 恐れをもって今日からの歩みをしたい・・・そうしようではありませんか。

                                   栄光在主 小ヨシュア

























 

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