みなさんこんにちは。朝晩は本当に寒いですよね。風邪など引かれておられませんか?
お変わりありませんか?さて、今日は、【この世にない考え】と題して書いてみたいと思います。
聖書は、箴言16章4~7節です。
「主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。
すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼は罰を免れない。
いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、主を恐れることによって、人は悪を免れる。
人の道が主を喜ばせる時、主はその人の敵をもその人と和らがせられる。」
正直この世にもいろいろな教えはありますがこんな風に考えることはあったでしょうか?
『主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。』
何とこの世のすべては主にあって、神にあって作られている・・・と。何の目的もなく偶然に
存在しているのではない・・・むしろ、神にあって存在していると。
・・・何とも不思議なしかし励まされる表現です。
人間の見方は往々にして、存在の目的の中に神を見失ってしまっていることが多いのでは
ないか・・・。だからか、この世の中には他人のことを何とも思わない、愚かな行いが満ちて
悪い行い、暴虐に悩む人も多くいる・・・そんな風に感じることはないでしょうか?
しかし何と御言葉は、
『悪しき人をも災の日のために造られた。』・・・悪者までもが無目的に存在するのではなく
災いを『神ご自身が備えられた災い』と御言葉は語っているのではないのか・・・。
よく聖書を、とりわけ旧約聖書を読むならば、神の選びの民のイスラエルの民が神の祝福
にもかかわらず神の御心を知らず怒りをかう行いをしたとき、何箇所も
神が災いの人を起こし、イスラエルを責められた、時に攻められ滅びをも与えられたことが
書かれています。
旧約聖書のなかで、北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリアの民、南のユダ王国を滅ぼ
したバビロニアの民・・・これこそまさしく『悪しき人をも災の日のために造られた。』
・・・でなくて何でしょうか。『災い』すらも偶然ではなく、神の許しのなかで起こっている・・・
聖書はそう語っている・・・そんな思いになります。
このような考えは全ての物事があたかも神とは無関係に、偶然によって人間的な因果
関係のみによって動いていると考える『この世的見方』に対して何と違うことでしょうか。
このことを考えるなら、神に正しく真実の心を向ける必要、しかし心から神に主に従うな
らやはりこの世的でない驚くべき祝福もある・・・そう思うことができる・・・次の聖句を読む
とそう思えます。
『・・・すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼は罰を免れない。
いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、主を恐れることによって、人は悪を免れる。
人の道が主を喜ばせる時、主はその人の敵をもその人と和らがせられる。」
何と、神がその人の行いを『喜んで』くださるとき、その人は
『敵をもその人と和らがせられる』のです。主の、神の思い測りは『この世の』思考を超える
・・・信じる者には敵との関係すら変えられる祝福を与えられる・・・そう御言葉は語ります。
そう言えば、滅ぼされたユダ王国の民は、バビロンに捕虜で連れて行かれた・・・その民は
喜びをもって約束の地に帰ってきています。かつては、敵対していた者の地で憐れみを受け
・・・戻ってきた、聖書はそう語っています。エズラ記1章1~5節です。
「ペルシャ王クロスの元年に、主はさきにエレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就
するため、ペルシャ王クロスの心を感動されたので、王は全国に布告を発し、また詔書をも
って告げて言った、
「ペルシャ王クロスはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さっ
て、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。
あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上
って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。彼はエルサレムにいます神である。
すべて生き残って、どこに宿っている者でも、その所の人々は金、銀、貨財、家畜をもって
助け、そのほかにまたエルサレムにある神の宮のために真心よりの供え物をささげよ」。
そこでユダとベニヤミンの氏族の長、祭司およびレビびとなど、すべて神にその心を感動さ
れた者は、エルサレムにある主の宮を復興するために上って行こうと立ち上がった。」
主は、神はペルシャ王クロスの心を動かし、滅びた宮の、イスラエルの民の宮の再建を
するようにまで命じたのです。驚くべきことですが、神の御心・祝福はこのような勅令すら
出させるのです。
この世にはない『神の御心』・・・そこに思いを馳せ、主への感謝をもって歩みたいな・・・
そう思うことができました。
栄光在主 小ヨシュア