みなさんこんにちは。しばらく、ブログが中断してしまっていました。去る12月2日に母が
急死し、いきなり通夜、葬儀と信じられない展開があり、ブログがしばし中断してしまってい
ました。久しぶりの再開です。聖書は伝道者の書3章1~3節です。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。・・・殺すのに時があり、いやすのに時がある。」
母は遠く離れた地で一人暮らし、早朝に入浴していて心臓に負担がかかったのでしょう。
浴槽内で急死してしまいました。あとで前日の夜遅くまで元気でいたことが分り、急死を受け
とめるのが最初苦しく感じましたが、葬儀までの慌ただしい日々が過ぎたあと、先の聖句が
心をとらえました。
・・・すぐに受け入れるのが難しい・・・そんな場合でも神様の側から見れば、まさに
『・・・すべての営みには時がある。』・・・そう語る御言葉に心が向いたとき、次第次第になぐ
さめを感じられるようになりました。
『生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。・・・殺すのに時があり、いやすのに時がある。』
いやされるのにも・・・時がある。よく、時間が解決するとか言いますが、そんな現実的なこと
ではなく、神がずっと人を人間を見ておられて『時をもって』・・・いやされる、人が独りぼっち
でただ時間がいやすなどという無機質なものではなく、神がそっといやされる・・・そう思いあ
たったとき静かな慰めを感じることができました。
先の御言葉をもう一度読むなら、
『天の下では、何事にも定まった時期があり、・・・』・・・と明確に書かれているのです。
人間の感覚では理不尽、偶然に見えることでも神の目から見ると、そこには不思議な節理
がある・・・そう思えるようになりました。
『急死』・・・と見える母の死も神ご自身がそれを受け入れられない限り起こることはない・・・
当初心の中で不条理、理不尽と思っていたことを静かに御言葉は心の中に染み入らせて
くれました。
正直、まだ心の中では三分の一ぐらい・・・『母は本当に死んだのだろうか?』・・・そんな
気持ちが癒えない心のなかでときおり頭をもたげます。
しかし、その気持ちにも静かに神は語られているように聖句は語りかけます。
『・・・生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。・・・殺すのに時があり、いやすのに時が
ある。』
・・・『いやし』とは人やこの世の慰めではなく神が癒されることに静かに気付かされたとき
こころに何とも言われぬ天来の癒しが、それこそ時を経てくるのを感じることができました。
年をまたいで母のいわゆる『四十九日』なるものがありますが、いまは静かに心を向けて
新年を過ごしてみよう・・・そうだんだん思えるようになりました。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。・・・殺すのに時があり、いやすのに時がある。」
御言葉に心を向け、祈りつつ神の癒しを感じてみよう・・・そう思います。
普段あまり心を向けることのない御言葉を静かにみつめ神の摂理に感謝し、日々を過ごし
たい・・・そう思います。
栄光在主 小ヨシュア