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Channel: 小ヨシュアの家・聖書研究会
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【憐れみを受けた者が悟るもの】

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 みなさんこんにちは。日に日に秋らしさに向かう訪れを感じる今日この頃ですがいかが

お過ごしでしょうか。さて、今日は、【憐れみを受けた者が悟るもの】と題してメッセージしま

す。2日ほど前より、新約聖書・マタイによる福音書の通読に入りましたが、有名な『種まき

のたとえ』の部分ではたと心が止まりました。マタイによる福音書13章3~9章です。

「イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。

まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。

ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、

日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。

ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは

三十倍にもなった。

耳のある者は聞くがよい」。

 この箇所は新約聖書中でも有名な部分ですが、特に最後の

『耳のある者は聞くがよい』・・・という箇所には深く心を指されました。

わざわざ、『耳のある者』は・・・と言うのです。きっと多くの者は聞く『耳』があっても何かを

聞けないのだろうか・・・そう感じさせる箇所です。

 この時、イエスが大勢の群衆に語っている場面ですが、そばにはイエスの愛された弟子

立ちがいます。その弟子が意味深なことをイエスに尋ねます。

マタイによる福音書13章10節です。

「それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるの

ですか」。

・・・何とここでイエス様は、神の子イエスは、なぜか群衆には『譬』で話している・・・そう書

かれています。・・・そうです。聞く力のある人は、その意味を理解できますが、そうでない

人は『譬』で語られたときその意味が分かるでしょうか。聖書はさらにこう語ります。

マタイによる福音書13章11~14節です。

「そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されて

いるが、彼らには許されていない。

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っ

ているものまでも取り上げられるであろう。

だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また

悟らないからである。」

こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには

聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。」

かなり厳しいことが書かれている・・・そう思われないでしょうか。

・・・そうです。神の子、主イエスは弟子には『天国の奥義を知ることが許されている』と

語り、何と群衆には『彼らには許されていない』・・・そう冷たく言い放つのです。

同じ御言葉を聞く者の間に恐ろしいほどの取扱いの差が見て取れないでしょうか?

何と群衆にはこうまで言われるのです。

『おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っ

ているものまでも取り上げられるであろう。

だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また

悟らないからである。』

・・・イエスに愛され、常にそのそばにいる弟子、神の御心を常に覚えて生きる弟子と、

イエスを見てはいても心は、自分の『思いや願い』にとどまる群衆・・・しかし、神の側から

の両者の取扱いには何と天と地ほどの取扱いの差なのでしょうか?

群衆には

『・・・持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 』

・・・持っているものとは、ひょっとしたら『肉体の命』もあるかもしれないし、イエスの十字

架の死を思うなら『永遠の命、救い』も意味しているのか・・・そう思わされるのです。

そして、イエスは弟子にははっきりと語ります。マタイによる福音書13章19~23節です。

「だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたもの

を奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。

石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。

その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってく

ると、すぐつまずいてしまう。

また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御

言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。

また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を

結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」

・・・ここで、弟子たちははっきり『譬』の意味を悟ることができたでしょう。イエスはさらに続

けます。マタイによる福音書13章24~30節です。

「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた

人のようなものである。

人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。

芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。

僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではあり

ませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。

主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集

めましょうか』。

彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。

収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集め

て束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。

・・・この後の箇所でイエスは麦と毒麦を神の御心を行う民、とそうでない👿の心で歩む民

のこと、収穫とは裁きのことだと弟子には明かされました。

・・・弟子とは、イエスに愛された歩みをする民は何と豊かな祝福を受けることでしょう。

それに対し『譬』を悟れなかったいわゆる『群衆』の歩みをしている民は何と知らず知らず

のうちに恐ろしい裁き、すなわち『地獄』に近づいてしまうことでしょうか。

神の子・イエスの『憐れみ』を受けた者として歩むかどうかはかくも決定的な差をもたらし

てしまうようです。

 私は、こう書いてきてふと、ヨハネの黙示録の7つの教会に対して書かれたある箇所が

心をよぎって仕方がありませんでした。最後にその箇所に触れて今日のメッセージを閉じ

たいと思います。

 ヨハネの黙示録3章の1~3節、そして7~10節です。

「サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持

つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなた

は、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。

目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわ

ざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。

だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りと

おし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るで

あろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」

 何ということでしょうか。ここでいう『サルデス』と言われる教会、すなわち神の民には

『・・あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。 』・・・とまで言われ

『だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りと

おし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るで

あろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。』

・・・とまで書かれています。何と裁きの時が分からない・・・そう言われているようです。

 それに対して

「ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダ

ビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれ

ることのない者が、次のように言われる。

わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じるこ

とのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかか

わらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。

見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダ

ヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するよ

うにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。

忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをた

めすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。」

 ここで、『ヒラデルヒヤにある教会』・・・その神の民には

『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じるこ

とのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかか

わらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。 』

・・・イエス自らそう語ってくださるのです。なぜかこの箇所を読んでいてそこが今日の

『種まきの譬』と重なって仕方がありませんでした。

この箇所は最後はこう結ばれています。

『・・そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。

忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをた

めすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』

・・・永遠の命に至る神ご自身の憐れみ、守りと祝福が溢れるばかりに感じ取れるようで

す。最後の最後に今日の御言葉をもう一度味わってメッセージを閉じましょう。

「イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。

まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。

ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、

日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。

ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは

三十倍にもなった。

耳のある者は聞くがよい」。
「だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたもの

を奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。

石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってく

ると、すぐつまずいてしまう。

また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御

言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。

また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を

結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」
「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた

人のようなものである。

人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。

芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。

僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではあり

ませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。

主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集

めましょうか』。

彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。

収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集め

て束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。 
「サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持

つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなた

は、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。

目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわ

ざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。

だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りと

おし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るで

あろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」

「ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダ

ビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれ

ることのない者が、次のように言われる。

わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じるこ

とのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかか

わらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。

見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダ

ヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するよ

うにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。

忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをた

めすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。」

今日は、弟子たちのことを心に覚えて書いていましたが、そうしているうち

【憐れみを受けた者が悟るもの】が何と幸いな結末に至るか、・・・逆に『譬』を悟れない

『群衆』の歩みをする者がいかに愚かな結末を知らず知らずに招くか・・・恐れをもって

感じずにはいられませんでした。

 心を主に、イエスご自身に真に向け、常に御心を思って生きる幸い、そのことに深く心

が捕えられた時となりました。皆さんの祝福を心から祈りたいと思います。

                               栄光在主  小ヨシュア




 










 
















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